DKOを振り返り①・なぜ湾フグロッドだったのか? <中編(彁)>

こんにちはっ❣️21歳女子学生拳丸の内オフィスレディの安藤美智子です。

今回は前回、常田大希について語ろうと思っていたのにかなり脱線してしまったのでちゃんと常田大希にフォーカスを合わせたいと思います。なぜなら常田大希の話は避けては通れない話なのですから。

 

第四章 続・常田大希の勇

ここまで常田大希の話をしておいてなんだが私は彼の名前を音で聞いたことがなく字面しか知らないので実は「たいき」と読むのか「だいき」と読むのか分からないのである。私の中ではたいき、としている、その方が濁点を打たなくていいから楽だからだ。更に言うと私の携帯では「つねだたいき」にしろ「つねだだいき」にしろ一発変換できないので「常田大輝」と打って輝を消して希望と打って望を消している。実に面倒だ、変換登録すればいいじゃん、まぁ、はい、そうですね。というか今考えたのだがコピーしてペーストすればいいのではないのだろうか、普段あまり携帯で文章を打つ機会があまりないので盲点であった。それにしても輝と望を消すなど大それた真似だと思わないか、二つ合わせると輝望である。きぼう、恐ろしい話だ、私は常田大希さんの名前を打ち込む度にきぼうを消しているわけだ。あまりに畏れ多い行為だと今にして思う。そう、私は今回長野に長期の異動に際して常田大希さんの中に希望をみたのである、いやもっと言ってしまえば彼の中に神を見出したのだ。そしてどうやら今調べたら読み方は「だいき」らしい。

前回のブログの中で私は無神論者だと言っていたがアレは語弊がある、ここ長野に来る前までは無神論者だった、というのが正しい。そう今私は神の存在を信じている。しかし同時に無神論者でもある。意味がない分からないと思うが常田大希さんに気付かされたのである。私は何も常田大希さんを、神、そのものとして崇めているわけではない、彼の中に、神を見出した、のである。この二つは全くの別物である。前者は人格神論としての常田大希である、しかし私は汎神論として常田大希に神を見出したのである。言ってしまえば常田大希さんは神の存在に気付いたきっかけであると言える。皆さんご存知……かは知らないが、少なくとも私は知らなかったのだが常田大希さんは長野県出身である。それを私は長野に向かうラジオで知った。今思えばこの時下の名前の読み方を聞いたはずだか忘れていたようだ。そこでそんな豆知識と共に呪術廻戦のオープニングだというスペシャルだかなんかそんな感じの曲が流れてきた。それを聞いた時に私は別にそれを「神曲❣️」と思ったわけではない。今にしても曲の感想自体は別にまぁ普通と言った感じである。更に言えば相変わらずKing Gnuのヒゲダンの区別がついていない。曲の評価はまぁその程度である。しかし長野という土地でラジオでその曲を常田大希さんの歌声を聞いている中、私は気付いてしまったのだ、神に。飛躍しすぎ、というより訳がわからないと思うが、気付いてしまったのだから仕方がない。

私は前のブログでも書いたように言ってしまえば物理主義者である。霊魂とか観念の世界とかクオリアとかを信じていない、アンチ二元論である。そして常田大希の中に神を見出した今もそのスタンスは変わらない。形而上のものを否定しながら神の存在を信じる、一見すると矛盾しているようだが、矛盾はしていない。まず一般的になんとなく神の存在を考える時に、「物質としての世界」の外に観念として神を想像する人が多いのではないだろうか。つまり神は物質として存在するのではなく、それを超越した世界の外に観念として存在すると考えるわけである。しかし私はこう考える、全ては神の現れであると。そして全ては神を内に含んでいる。世界のみが存在して、神は世界の総和、世界は神の総和なのだと。つまりこの物質的世界、常田大希さん、わたし安藤美智子、あなた、全てが神である。例えば自然の中に円が存在している、その円は神の中に存在する円と同一なのだ。ということは神の中に存在する常田大希さんの歌声と自然の中に存在する常田大希さんの歌声は同一なのである。つまり常田大希さんの歌声は神の歌声なのである。ここで一つ疑問が生じる、物質世界と神がイコールであるならば、物質主義と神を信じるということは両立してしまうのではいかと。もっと言えば無神論と汎神論は両立するとも言えてしまう。そうこの考え方は唯物論と両立するのである。感覚的にそれを許せない人もいるだろうが私はそう考える。問題はなぜ私がそれに気付いたかだと考える。私は悩んでいたのだ、長野に行くべきなのか行かないべきなのか。長期間家を空けたこともないし、ホテルにしても一軒家にしても固定回線がないからパソコンゲームもできない、つまりしーにゃといちゃいちゃできない、私は悩んでいた。そんな時だった、そんな時に常田大希さんの歌声が流れ込んできたのである。そして私は全てを理解したのだった。理由などない、いや説明のしようがないと言った方が正しい、神託、いやここで神託という言葉を使うのは誤謬である。神託というと何か、外からの神の言葉の様な印象を与えてしまうが、気付きを得たのは私が全て自発的に得た答えなのだ。しかし結果的にはそれが神託である、とも言える。何故なら私は神の一部、というより神そのものだから。そうして私は長野へと向かったのだった。

続きの前に全てを気付かされた常田大希さんに敬意を表して、改めてKing Gnuとヒゲダンを聴き比べてみる。全然別物だった。何故これを混同して覚えていたのかわからないくらい別物だった。私はどちらかと言えばKing Gnuの方が好みだ。特別刺さる訳ではないがいい曲だと思います。ヒゲダンは全部曲が一緒だ。しかしやはりバンドと言えばナンバーガールである。安藤美智子がナンバーガールファンだという事はこれを読んでいる人のほとんどは知っているだろうが、やはり一番はナンバーガールなのである。中学生だったか高校生だったかそれぐらいの時期に知ったのだが、その頃の安藤さんにばちこり刺さったのである。それからずっと好きなので十年程度は聞き続けているわけである。2019年に再結成してから再解散するまでコロナなどもあり結局ライブには一回しか行けなかった。ただ二十年前に解散したバンドが再結成してそのライブに行けたというのは、一回だけでも価値があった。ナンバーガールが私に与えた影響は大きい。音楽観、死生観はかなりの影響を受けている。ナンバガザゼンにおける頻出ワードといえば「諸行無常」である。諸行の無常を感じて感じて……

 

第五章 伊那春日公園の乱

そもそも何故私は長野へと向かっていたのか、何故今の様な事態になったのか。そして何故それを説明するはずのブログでクロンダイクや幽霊、常田大希、神についてぺらぺらと語っていたのか。わからない。そもそも何を目的としていたのか、わからない。そもそも目的などあったのだろうか、そもそも目的とはなんなんだろうか?生の目的とはなんなのか?長野に行く行かない、今どこで何をしているかなどマクロの視点で見ればどうでもいいことなのかもしれない。そもそも全てどうでもいいことなのかもしれない。生も死も目的も全てはどうでもいいことなのかもしれない。考えることなど無駄なのかもしれない、生にしても死にしても答えなど出せない以上考えるだけ無駄なのかもしれない。ただ生きるだけである。ただいずれ死ぬだけなのだ。そしてただ長野にいるだけなのだ。何があったかなど関係ない、目的などあってもなくても同じなのだ、ただ今、ここにいるということ。それ以上でも以下でなく、ただ今、ここにいる。諸行の無常。ただ流されているだけだ。川を流れる水は何故流れているのかを考えているだろうか?いや、いない。いずれ海に辿り着くことを知っているだろうか?いや、知らない。そして海に辿り着いた後、水はどうなるのか?知らない。水という物質と人間という物質に違いなどあるのか?ない。私達はただの物質なのである。ただ流れるだけである。そう、私は今回長野に行くにあたって考えることをやめた。勇気ある選択である。行く、行かないの二つの選択肢から第三の選択肢、思考放棄を選んだのである。それは選んだのでなく思考放棄しただけなのではないか?いいえ違います。思考を放棄するということを選択したのであって思考を放棄したわけではないのだ。まぁ常人には出来ないでしょうね。そもそも今回長野に行くという話は本当に突然の事でした。あれは九月の頭のことだった……というか今これ書いて思ったけどもう一ヶ月経ったのか……