DKOを振り返り①・なぜ湾フグロッドだったのか? <中編(異)>

こんにちはっ❣️21歳女子学生兼丸の内オフィスレディの安藤美智子です❤️

 

第四章 常田大希の勇

クロンダイクの変、から始まり遂に私は常田大希について語らなければならないのだろう。私に起きている今回の出来事、いや私の人生そのものを語る時に常田大希は避けては通れないものなのだ。

まずその前に私が今住んでいるこの家について話さなれけばならない。今年の2月にも私は長野へと足をのばしていたがその時は車での通いだったので当たり前だが住む場所は必要なかった。しかし今回は長期になる可能性がある、夜遅くなる可能性がある、疲れている中往復運転している場合ではないなどの理由から今回は泊まりになったわけである。そもそも私は二月の時も泊まりで構わなかったのだけれど後輩が通いがいいと言っていたのと期間が1ヶ月間しかなかったのもあって泊まりにはしなかった。色々慌ただしくばたばたした中ではあったが当分の住処については当時二個の選択肢があった。一つはビジネスホテルあるいはマンスリーマンションである。宿泊費の補助は出るとの話ではあったが全額ではなかった。もう一つは出向先の寮である。社員寮、という言葉を聞いて思い浮かべるのはマンションの様なタイプだと思うがここでいう寮というのは一軒家である。コロナ前までは四人程度が生活していたらしいが今は誰も住んでいない様だった。こちらについては光熱費は除いて無料で利用していいとのことだった。なら後者の社員寮を選ぶ人が大半だと思うが、問題が一つあり、さっき話にでた後輩が女性で今回も同行するということだ。つまり社員寮(一軒家)に男女二人というのは問題だろうしどちらかがホテルになるということだった。だと思っていたのだが後輩は別に気にならないとのことだったので二人で一軒家を借りることになった。まぁ正直私がかなり難色を示したのだけれど、まぁ正直ホテル代などは取られたくなかったので結局は折れることにした。わくわくドキドキ恋愛リアリティーショーの開幕である。そんなことはない。当たり前だかそんなことはないのである。そもそも前は4人ほど住んでいた二階建て二世帯住宅で一階と二階で完全に棲み分け出来ているのだ。故意に接触を図ろうとしない限りは基本的に一つ屋根の下というだけで全くの別空間だ。脱衣所を開けたら服を脱ぎかけの人がいたりとかそんなトラブルは起こそうと思わない限り起きないのである。そもそも論としてそういった対象として見られていない事は別として何故後輩が一緒でもいいとか言い出したのかと言うと、出向先の人によるとなんでもこの一軒家「でる」らしいのだ。別に亡くなった人がいるとかではないらしいが、この寮を利用した人の何人かはそう言った目撃談があるとのことだった。それを聞いた時に後輩は怯えていたが私は構わなかったので私が一軒家の権利を得たと思ったが、ホテル代を払いたくなかったのは後輩も同じだった様で、じゃあ私がホテルかと思ったが、でる家に一人は嫌だということでこの様な形になったわけである。

ここ二年間ぐらい心霊や幽霊といった類の動画などは見飽きるほどに見た。所謂きばセレである。その前までは私のそういったものに対するスタンスは普通に恐怖であった。まぁ当時から存在そのものに対しては懐疑的ではあったが、幽霊の話や動画は普通に怖かったのだ。だが今の私のスタンスは、無、である。心霊映画、怪談、投稿動画などを摂取しまくった結果、それらは全て嘘であるという結論に辿り着いた。まぁそもそも映画などはフィクションなので当たり前なのだか。それはそうとして、私は幽霊などいない、と断言するわけである。そういったものに対して恐怖というものは感じなくなってしまったのだ。心霊などをフィクションとして楽しむことを否定しているわけではない。私も面白い作品は普通に好きだ。ただ怖いとは思わないだけであって心霊や幽霊を扱ったコンテンツを否定しているわけではないのだ。また幽霊はいると思っている人を頭ごなしに否定するつもりはない。さっきいないと断言しておいてなんだが、いてもおかしくはないとも思う。未来の技術力では幽霊などを立証できる可能性もあるのかもしれない。ただまぁ現時点で私はいないと言わせていただきますが。基本的に私は立証主義に立っているのだ。主義とか言い出すとなんか話をでかくしすぎな気もするけれど、私は神も信じていない。無神論者ではあるが、汎神論には理解を示している。まぁここでは神はいようといなかろうが関係ない。日本において無神論者は結構いるらしいが、特定の宗教を信仰していないことがイコール無神論ではないと思うが、まぁそれでも無神論者結構いるのだろう。だか幽霊はどうなんだろうか、感覚的には半々程度だと思われる。いやもしかしたら存在を信じている人の方が多いのかもしれない。確たる証拠もありもしないのに。宇宙のティーポットという話がある。宇宙のどこかに太陽を周回軌道しているティーポットが存在すると主張する人が、誰もこれに反論できないということを根拠にティーポットの存在を信じるのはナンセンスである、という話だ。幽霊も同じである、存在を否定できないことが幽霊の存在の根拠のひとつになっていることがある。ティーポットだと人はそんなわけないじゃんと笑うかもしれないが、こと幽霊となると話が変わってくる。日本において幽霊というのは割とポピュラーな話で幼い頃から触れる話であるからだ。妖怪や学校の怪談など幼い頃から触れているのでさも存在することが当たり前、あるいは存在してもおかしくないなぁ〜程度の教育を自然と受けるわけである。今は少ないが私たちが小さい頃はテレビで心霊特集もよくやっていたものだ。テレビの影響は大きく見てそれを学校で話す、こうしてますます心霊の影響は大きくなる。でも考えてみればティーポットと何が違うのだろうか。実体験として見たことがあるとか抜かしている人は別として幽霊を信じている人の大半は聞いただけで信じているのではないだろうか。そう私もその一人だった。人並みにこっくりさんトイレの花子さんを怖がっていたし人並みに幽霊の存在をなんとなく信じていた。しかしそれらは言ってしまえばプロパガンダの結果であるとしか言いようがない。そもそも例えば暗いところを怖いと思うのは根源的な恐怖である、そこにつけこみ「幽霊」という存在を教えられるとさも闇への根源的恐怖が幽霊への恐怖と置き換わってしまうのだと考える。そういった幽霊の恐怖のプロパガンダを受けて育った結果、人は幽霊を信じるのだろう。幽霊なんて信じてない、と言うと「じゃあ深夜に廃病院一人で行けるの?」とか言う人がいますが、信じているか信じていないかは別として、深夜に一人で暗いところにいるだけで人間は怖いのである。という話をすると「怖いんじゃんwww」と言われる。ぶっ殺すぞ。改めて考えると幽霊がいるという根拠があまりにもなさすぎるのだ。私に言わせてもらえば、幽霊を信じている人間は疑うことを覚えた方がいい。「私霊感あるんですよ〜」とか「私幽霊見たことあって〜」とか言っているやつ全員バカそうである。そんなやつのことを信じるよりは私は私を信じると言う話である。また幽霊を信じている人間は、人間の意識というものを棚に上げすぎだと思う。幽霊によくあるのが恨みつらみで成仏出来ずに幽霊として漂う、というのがあるが、だから何?という感じだ。そもそも人の意識などただの電気信号にしか過ぎない、記憶もそうだ。それが肉体が死んだ時になんになるというのか、何にもならない。恐らく信じている派は「死」という現象に夢をみすぎている。それは分からないでもない、死というのは最も身近にある謎だからだ。宇宙は謎だ、だがスケールもでかいし普段宇宙を意識しながら過ごす人は少ないだろう。しかし死は生きている限り多かれ少なかれ意識するし、身近で発生したりもする。そして死んだらどうなるか誰にも分からないのだ。生物は等しく死ぬが誰も死を経験したことがない。だからこそ幽霊は宇宙のティーポットなのだ。死んだら怨みで幽霊になる、そうなのかもしれない。反証のしようがない、分からないのだから。しかし私は死を特別視していない、ただ死ぬだけなのだろう。天国も地獄も輪廻転生も幽霊として漂うこともない、ただ死ぬだけだと思っている。これが正しいのかは分からない、ただ死に対してこういうスタンスなので幽霊に対してもこういったスタンスなのである。ということは幽霊を信じている人間は「魂」という概念を信じているということなのかもしれない。魂の定義にもよるがここでいう魂とは、自意識、を超越した何か、肉体とは別に存在する精神としての実体を指す。私は魂を信じていない、自意識というものは肉体の電気信号に過ぎず、肉体が死ねば自意識も死ぬ。それが私の考えである。これも正しいのかは分からない、ただそう思うだけである。ただこれが最も現実的な考えだと思う。霊魂などありはしない、霊魂など「幽霊」「天国と地獄」「輪廻転生」これらのプロパガンダの産物にしかすぎないと思う。日本ではこれらの考え方と触れ合う機会が多いのだ。最早色んな媒体で天国と地獄はあることが前提の様な感じである。誰も見たことがないのに。しかも幽霊を否定することには同調してくれても天国と地獄については同調されなかったりとかなり深く根付いている印象を受ける。死んだらどうなるかなど誰にも分からない以上あるかもしれないしないかもしれないのフィフティーフィフティーであるはずなのにも関わらずだ。本当に魂というものが存在して未練や怨みがあると幽霊として天国にも地獄にも行かずに現世を漂うのだとしたらあまりにも目撃談が少なすぎると思う。大抵の人間は死ぬ時に多かれ少なかれ未練とか怨みとかあるとおもうんですけど、一日に日本だけで3000人ぐらい死んでいて、まぁその1/3の人が未練があったとして1日で千人の幽霊が誕生していることになります。一週間で7000人、一ヶ月で3万人。そしてそれらは消えずに漂うわけだからどんどん増えていく、にしては目撃談が少なすぎる。「いやそれは霊感がないから〜」まぁそれを言われるとそうなのかもしれないが、というより霊感は存在しない、と言い切れない限りはそれはそうなのかもしれないと言うしかないのだか、それにしたって、という感じである。逆に言えば霊感のある人間が存在するとしたら、その人は日常生活を送れないと思うのだが、とんでもない量の幽霊がいるならたまに怖い思いをするとかそういう以前の話になると思うのだが、大半の人間は病院で死ぬと思うので病院とか行ったらすごいことになってそうだが。そもそも霊魂というものが存在して死んだら幽霊になるとしたら、人間以外の生物はどうなんだろうか、動物とかの霊もいると言うし、全ての生命が幽霊になるとしたらとんでもないことである。人間しか幽霊になれないというのならそれはそれで驕りが過ぎるというものである。畜生と人間に違いなどない。

そう言うわけで私は幽霊を信じていないのでこの一軒家に住むことはなんの心理的な瑕疵など存在していなかったのだが、後輩はそういうわけでもなかった。めちゃくちゃに怖がっていた。まぁでも住めば都といったもので今では別に怖がっている様子はない。最初の頃家鳴りに悲鳴を上げて私がビビってすっ飛んで様子を見に行くということがあったのだけれど、家鳴りは家鳴りである、木造住宅でよく見られる現象で気温差によって柱などの建材が収縮した結果音がなるというものである。普段意識してなくとも「でる家」と聞かされていたから気になってしまうのだと思う。そもそも家鳴りと言う現象そのものを知らなかったみたいだし。木造住宅に住んだことがない人間はそこまで気にしたことがないのなもしれない。しかし別に鉄骨住宅などでも起こらないわけではない、気にしてないから覚えていないだけだと思われる。この寮は恐らく木造の2×4だと思われる、なのでたまに結構な音量でパキッとか聞こえる。確かに知らなかったら所謂ポルターガイストと思っても仕方ないのかもしれない。また当時幽霊を見たと言う話も考えものである。その当時は3-4人程度の他人同士が住んでいたというのなら、寝ている間に同居人がうろうろしていたのをドアの隙間から眠気まなこでみたのかもしれない。同居人の足音を何かと勘違いしていたのかもしれない。人によると思うが自宅ではない環境で他人と同居するというのはそれなりの心理的緊張をもたらすのではないだろうか。それらと仕事の疲れが合わされば勘違いなども起きそうなものである。私もここに来てから一度夢でなんとなくその家の中で何かを見た。ただ確実に夢だと言える。或いは本当に見たのかもしれない。まぁ私は幽霊を信じていないが、もし仮にいたとしたらぶっ殺すぐらいの気持ちでいる。かかってこい。私が通話中にコックリさんを呼び出すところを聞いた人は多いと思うが未だに来ていない。つまりいないのだ。そしてコックリさんなどにも見られるように怪異譚というものは人間の心理をついてくる。今回、後輩がただの家鳴りに驚いたのはそれが「でる家」と聞かされていてのがでかいと思われる、きっとそんなこと言われてなかったら驚木はしたかもしれないが悲鳴は上げなかっただろう、つまり心理的な隙をつかれたわけである。同様にコックリさんはどうだろうか、細かくルールを設定してそのどれかが一つでも失敗すると呪われる……失敗することを過剰に煽っている。失敗すると錯乱するとか死ぬとか知っているそんな中で呪術的儀式を行うというのは緊張が走るというものである。そして緊張というものは心理的隙を生む、正常な判断ができなくなったり、或いは精神が正常でなくなったりする。幽霊などというものは総じてそういうものだと思う。そして話しは本題の常田大希に入る、と思ったのだが思いの外時間が経っていたので今日はもうねます。